現代において、我々が称揚せんとする行為は多様な文脈で、しかしありきたりなものとして語られる。快楽を得るためのたわいない行為のひとつである点は否定できないし、かつては女性の側から性の解放という政治的文脈で捉えられることもあった。
我々が敢えてここに集うのは、それらの文脈の中で看過されがちな、ある一つの側面を再び汲み取るためである。それは「美的崇拝(Gynolatry)」という視点である。もちろん、これもまた今やありきたりなものとして映ることも否定しない。
しかし我々は、専ら消費物としてのポルノまたは文学的表現の氾濫によって、意味の強度を擦り減らされ続けてきたこの「美への従属」という静かな瞬間に、今一度光を当てたいのだ。
古代ローマにおいて「クンニリンクトル」は最大の侮蔑語であった。能動性を放棄し、受動性を選んだ男の恥とされた。現代の文脈において、この解釈は当然成立するものではない。
あるいは、サディスティック、マゾヒスティックなどという二項対立概念もそのあまりの単純な構造から、巷の噂話としてすら、それが卑猥であるという理由ではなく、それがあまりに単純であるという理由で眉を顰められるほどで、今さら得られる意味の強度などたかが知れている。
それでもなお我々は、古代では恥辱という強度を帯びたこの行為、しかしもはやそのような強度は持ちえないこの行為を見つめなおし、我々はそれを選んだ、というごく弱い主体性の発揮から、このささやかな自由から、弱い思考から、語り始めるほかないのだ。
それは、かつて何度も繰り返されたであろう自己陶酔や傲慢さの呼び起こしという愚を犯すことになるかもしれない。しかし、もはや「器官なき身体」などと呼べるものは容易に見つけられず、高度に管理化された結果「身体なき器官」という亡霊が漂う世界において、その亡霊が語り始めることができるただ唯一の視座である。
我々の眼差しは、肉体とは解読されるべき聖なる「記号(Icon)」である、という点にまず立ち返る。
対象の秘所は、物理的な器官を超え、美の構造を内包したテクストとして立ち現れる。
桃の果汁のような粘性。無花果のような複雑な襞。
我々は「エロティック・イーティング」の作法を通じ、これらの記号を物理的に摂取する。
我々はこの儀式としての解読を通じて、忘れ去られたアンサンブルを取り戻す。
我々はその意味を自身の舌でなぞり、体内に取り込むことによってのみ、美の構造に触れることができるのである。
我々の精神的系譜は、日本の近代文学における巨匠たちを常に参照する。
谷崎潤一郎の本質は、単なるマゾヒズムにあるのではない。彼は『痴人の愛』や『富美子の足』において、汚物や排泄物への執着さえも、文章というレトルトの中で「黄金」に変える錬金術を行使した。ヘンリー・ミラーが「不潔」の中に「聖性」を見出したように、谷崎もまた、卑近な肉体を文学的宇宙へと昇華させたのである。
永井荷風は『濹東綺譚』において、情事の渦中にありながら、常に窓外のドブ川や季節の移ろいに目をやった。対象に溺れつつも、決して同化しきれない「冷徹な観察者」の視座こそが、逆説的にも錬金術を可能にする基底を構築する。
熱狂的な「錬金術」と、冷めた「観察」。この二つの精神と舌の往復運動の中に、我々のアイデンティティはある。
しかし、我々は警戒せねばならない。錬金術とは、素材を加工し、変質させる行為である。
対象を「黄金」へと昇華させるその手つきそのものが、生身の人間を素材として扱う暴力性を不可避的に孕んでいるからだ。
観察者が孤独であるということは、独善であるということである。
この独善に付き合わされる対象が一人の人間であるということは、それだけで罪深いことだ。
崇拝は実に容易に支配/被支配の関係性を呼び込み堕するリスクを伴い、また、我々の脆弱な肉体と精神は、手繰り寄せるや否や、文学的宇宙の寒さに耐えられず直ちに胡散霧消するであろう。
我々は実態として傷つきやすく脆い。ただ、弱い。
この事実を参照すること。これが、我々の錬金術におけるもうひとつの公理である。
もはやここまでで多くの者が脱落しただろう。
対象を記号として解読することと脆弱な人間として尊重すること。
観察者の冷徹な視座と、崇拝者の熱狂的な没入の並行。
これらは独善である以前に論理的に衝突している。
しかし、我々は舌で触り、観、聴き、嗅ぎ、食すことを、偶然にも、既に選択した。この偶然の中での探究を我々はやめるわけにはいかない。この亡霊の漂う夜の世界で、朝を迎えることに賭けているのだ。